ニッポンのブーランジェ

スタッフと家族の笑顔を力に前へ、未来へ vol.29 ブーランジェリー ビアンヴニュ 大下 尚志氏

パンをつくることよりも、パンを食べてもらうことが好きだという大下氏。ビアンヴニュのコンセプトは、毎日食べるパンだからこそ「安全で美味しいもの」を提供すること。店に一歩入って並んでいるパンを見たとき、楽しい気分になってもらえるような店づくりを心掛けている。ビアンヴニュという店名はフランス語で「ようこそ」という意味。気軽に入れる店にしたかったという大下氏の思いが込められている。

フランスパンの伝道師と呼ばれるフィリップ・ビゴ氏の店で、パン職人としてのキャリアをスタートさせた大下氏。ビゴの店で約6年間、フランスパンの基礎を徹底的に学んだ。自身の店で焼くパンはインパクトを求めるのではなく、子どもからお年寄りまでが食べやすいやさしい味。毎日食べ続けても安全な食材を厳選して使用。自分の大切な人に安心して食べてもらえるパンがそろう店だ。

決して目立つ場所にあるわけではないのに「財布だけ持ってちょっと買いに来た」といった常連客が多い店。そんなビアンヴニュの人気の秘密を大下氏に聞いてみた。

自分の子どもに食べさせたいパン

パンの材料には、自分の子どもにも食べさせられるものだけを使っている大下氏。

「皆さんは毎日、添加物の入っているパンを食べたいですか? 私はトランス脂肪酸が入っているマーガリンやショートニングなども何となく嫌なので使いません。食材に関しては自分のフィーリングを大切にしています」と話す。

大下氏はパンの中に入れるクリームや具材も、できるだけ手づくりするのはもちろん、安心できる業者の手でつくられたものを吟味して使っている。忙しくても手を抜くことなく、毎日ていねいなパンづくりにこだわっている。

「まずは地元の方に喜んでいただき、さらに遠方のお客さまにも来ていただける…。そんな店が理想ですね」

大下氏のおすすめはナチュラルチーズ、クリームチーズ、パルメザンチーズなどがたっぷりの「チーズまみれ350円(税抜)」。北海道のよつ葉バター(無塩)のまろやかな風味がやさしい「クロワッサン150円(税抜)」。毎日来てもワクワクできる「日替わりデニッシュ200円(税抜)」など。ちなみにこの日は抹茶とあずきの和風テイストだった。

パンを生活の一部として、食卓に並べてもらいたいと考えている大下氏。「私が目指すのは5年、10年と愛され続けるパン。いつかビアンヴニュのパンを食べて育った子どもたちが、思い出の味として懐かしんでくれるような、心に残るパン屋になれればと思います」

好きを伸ばす修業ができれば…

大下氏は現在42歳。大阪・中之島の辻学園を卒業後、19歳から働き始めた。最初の修業先は辻学園の先生に勧められた「ビゴの店」。ビゴ氏のもとで夢中になって働き、フランスパンの基礎をたたき込まれた。

「教え方や勤務時間の長さなどは、とっても厳しかったです。でも当時はSNSなどなくて、周りの情報が無駄に入ってこなかったことがよかったと思います。19歳の自分は『みんなも必死で働いているんだろうな』と考えていました」と大下氏。

「今の若い人は情報がすぐに入ってくるので『自分だけこんなに働いていて』と不満を持ってしまうんでしょう。けど一生懸命働いている人は、つまらないメールを送っている暇なんかありませんよね」


この業界では、よく「修業がきつい」と言われるが、パン職人の道を選んだからには、どこかに「好き」があるはず。大下氏によると「その好きを伸ばしていくことが大事なんです。やればやるほど好きが大きくなっていく人もいます」とのこと。

ビゴの店を退職した後、神戸北野ホテルのパン部門「イグレックプリュス」の立ち上げにたずさわり、シェフとして9年間働いた。

上海での大変な立ち上げ経験

2010年7月から、堂島ロールで有名な「パティスリーモンシェール」のブーランジュ部門の立ち上げで、上海へ。「今までいくつかの事業を立ち上げてきましたが、自分には向いていないと思うんです。小心者なんでたくさん準備したり…、どうしたら上手くいくかとか…、いろいろ考えますね」

にもかかわらず、この立ち上げを引き受けたのは、海外で仕事をしてみたかったことと、モンシェールの金美花社長と知り合いだったからだそう。

上海では何も拠点がない状況からのスタートだったので、24時間使える厨房を夜8時~翌朝6時まで借りてパンの製造をしていた。「厨房から販売する店まで約1時間かかるんですが、早朝5時にパンを運んで、店舗に着いてからサンドイッチづくりを開始。そのまま店がオープンして休む暇もありませんでした」

12時~13時の間がかろうじて休める時間だったが、その間にマッサージ屋でマッサージをしてもらいながら眠るという、大変なスケジュールだった。無事に立ち上げを果たして退職。2012年8月に念願の独立を果たした。

スタッフが活き活きできる店づくり

「夢は独立という人がよくいますが、独立は終着点ではありません。独立してからのほうが長いんです」と話す大下氏。ビアンヴニュは御影エリアに位置し、神戸市の中心部を東西に走る山手幹線に面している。しかしちょうど高架にさしかかるところで、よく注意しないと見落としてしまいそうな場所にある。オープン当初は「こんなとこでやってもつぶれるわ」と笑われたと言う大下氏。

けれど店は人に評価してもらうものではない、というのが大下氏の信条。「自分が素敵だと思うかどうかが大事なんです。私にとって店は家族と同じくらい大切なもの。ずっと続けていくものだから、流行廃りに左右されたくないんです」

現在、ビアンヴニュの職人は大下氏を含めて4人。「家族より長い時間を一緒に過ごすのですから、遠からず近からずの関係がベスト。私はなるべく厨房に居ないようにしています。おかげで社員もアルバイトさんも長く勤めてくれている人が多いんですよ」

大下氏が大事にしているのは、スタッフの居心地がよいかどうか。指図らしいことは何も言わない。「よく店の雰囲気がいいと褒めていただけるのですが、スタッフにはいつも『自分がお客さまならどうか?』ということを考えて欲しいと伝えています」

家族や地元を大事にすること

徹夜を自慢するパン職人はダサいと言う大下氏。「パンは並んでまで買うものではないと思うんです。行列をさばくために、スタッフに無理をさせるのも嫌なんです」自分が楽しくいられるかどうか、スタッフにモチベーションを上げてもらうために何をするかもオーナーの役割。催事の準備などでたくさん商品をつくるときは、職人にインセンティブを支払ったり、代休を取れるようにしているそうだ。

「家のことは妻に任せきりで『仕事に熱中しています』という職人もいますが、家族をないがしろにして本当にしあわせになれるのかと思うんです。私には妻と2人の子という大切な宝物があります」時間があるとディズニーランドへ行ったり、日帰りで出かけたりと、子どもと一緒に過ごせる時間を大切にしている大下氏。そのために、店の定休日を日曜にしているそうだ。

京都出身だが、現在は神戸在住の大下氏。「神戸は地元の店が大事にされる街だと思います。手づくりの価値を知っている人が多く、個人店を尊重する風土がありますね」

大下氏の仕事以外の楽しみは、パン職人の仲間とおいしいものを食べに行くこと。「こういう仕事をしている以上、食べ物に高いお金を出すことは惜しみません。もちろん行くのは必ず個人オーナーのお店です」個人店を経営しているからには、個人店にお金を落とすべき、というのが大下流だ。

新店舗やパン教室で事業を拡大

2年前に阪急神戸線六甲駅から200mほどの場所に「ブーランジェリー ビアンヴニュ コフレ」をオープンさせた。こちらでは洋菓子感覚のおしゃれなパンと、洋菓子を販売している。「2年間は販売のみでしたが、店のリニューアルを機に、焼き菓子や生菓子の製造も行うようにしました。本店とコフレでパンとお菓子をつくって交換することで、双方とも幅広い品揃えができるようになりました」

コフレでは北野ホテル時代の後輩がパティシエを務めている。「ケーキはひとつだけでは買いにくい。けれどパン屋で売っている洋菓子は、1個からでも買いやすいですよね」と新しいチャレンジに意欲を見せる。

今は休止しているが、店舗隣のアトリエでパン教室を開催していた大下氏。パン教室の目的は、地元との接点を持ちたいと考えたこと。「うちの店が地域の暮らしの中に溶け込んで、寄り添えるようになればうれしいですね」

現在は依頼されたパン講習会などで講師をしているが、どの教室も人気で予約はすぐ満杯になる。一般の人にパンづくりを教える中で、プロである自分が疑問に思っていないことを質問されることがあり、それが大下氏にとって新発見になるのだそうだ。

「講習会では時間がないので、実際にうちの生地を使います。これによって店のパン生地の良さも分ってもらえるんです。うちのパンの特徴は、シンプルに生地がおいしいこと。生地のレシピは決まっているようで決まっていないんです。材料をこねながら、手で触った感じで判断しています」

過去はふりかえらない。人との出会いがすべて

「取材や講師、催事など忙しい毎日で、人から『たいへんでしょ?』とよく言われますが、過去のことは忘れてしまうタイプなんです」と笑う大下氏。「これからこんなことをするんだ」と未来を語っているほうが、周りの人も楽しいはずだと信じている。

今の自分を奮い立たせているのは過去の自分。やりたくないなと思う仕事もあるが、やめてしまうと過去の自分を否定することになる。だからこそ過去を振り返らず、未来に向かって進んでいるのだ。

雇用主として、スタッフに対する気配りも忘れない。講習会や催事に参加するときは、スタッフに迷惑をかけないよう、休みをつぶさないように日程調整をしているという。「高校生のときにアルバイトをしていた子が、大学生になって『もう一度、ここで働かせてください』と言ってくれたときはうれしかったですね」と相好をくずす。

「私のバックボーンは、今までかかわってきた人すべて。パン職人になる前もなってからも、出会った人すべてが私に影響を与えてくれたことはまちがいありません」と語る大下氏。これからもブレることなく、地元に愛される安心でおいしいパンをつくり続けてくれるだろう。

大下 尚志氏

兵庫県・芦屋の有名店「ビゴの店」でパン職人としてのキャリアをスタート。約6年間にわたり徹底的にパンづくりを学ぶ。その後「神戸北野ホテル」のブーランジェリー部門「イグレックプリュス」のシェフに就任。約9年間の勤務の後、2010年より株式会社モンシェールの上海進出を任される。2年間で無事に立ち上げに成功。2012年8月、神戸市御影に自身の店ビアンヴニュを開業。シェフとしても活躍しながら、各所で講師として指導にたずさわる。

ブーランジェリー ビアンヴニュ

郵便番号/658-0047
住所/兵庫県神戸市東灘区御影1-16-15 エクセレンス御影 1F
最寄駅/阪急電車御影駅
アクセス/阪急電車御影駅より徒歩10分、JR住吉駅・六甲道駅より徒歩15分
電話/078-771-2866
営業時間/8:00~19:00
定休日/日曜



※店舗情報及び商品価格は取材時点(2018年8月)のものです

ニッポンのブーランジェ トップに戻る