ニッポンのブーランジェ

化学の理論を活かした多彩なパンで、みんなをしあわせに vol.32 Boulangeríe récolte(ブーランジェリー レコルト)松尾 裕生氏

国道28号線に面したブーランジェリー レコルトは、オレンジ色の丸い柱が目印。阪神電車高速神戸線・大開駅のすぐそば、JR神戸駅からも徒歩6分という便利な立地だ。パン屋の多い神戸の町で、客足が途切れることなく、レストランのシェフたちもオーナーシェフの松尾裕生氏との会話を楽しみにやって来る。
臨床検査技師として働きながら、趣味として始めたパンづくりに魅せられて、病院を退職した松尾氏。自己流で焼いているうちに、基礎からパンづくりを学びたくなり、「ビゴの店」で働きはじめた。

レコルト(recolte)とは、フランス語で「実る・収穫する」という意味。酵母や酵素の力を借りて、時間をかけて旨みを引き出したパンを食べてくれたお客さまの笑顔が、松尾シェフにとっての実り。パンを通じて出会った人々を心の宝物として、今日も美味しいパンを焼いている。

ポジティブ思考の「感動屋さん」に

「この1~2年、自分自身の心の変化を感じていて、人生が変わってきたような気がします」と語る松尾氏。基本的に頼まれたことは断れない性格で、取材の依頼なども積極的に受けているそうだ。その理由は、パン以外の世界の人たちから、いろいろなことを学べるから。松尾氏がいちばん好きな時間は、お客さんや飲食業の人はもちろん、異業種の人たちと話すときだという。
今は2店舗を構えて、経営も軌道に乗っているが「パンは売れているのに、支払いができない」というつらい時期もあった。「人を雇うことや経営のことなど、壁に直面すると不思議に助けてくれる人が現れるんです」失敗したり、どん底のときこそ、人との出会いが大切だと痛感。出会った人々からマネジメントやリーダーシップの取り方などを学んできた。
いろいろな人に会う中で、将来自分が何をしたいかを語れなかったという松尾氏。自分には芯がないんだと悩んでいたとも。「以前はとても心配性でネガティブな性格だったのに、たくさんの苦労を経験してきたので、今度も乗り越えられるはずと考えるようになりました」

店の真ん中に、鉄刀木(てっとうぼく)という堅い木で出来たテーブルが置かれている。三宮の有名パン店のオーナーの紹介で知り合った、材木屋さんがとても熱い人で、その熱さに感動して購入したものだ。ある講習会では、たまたま隣にいた窯元と意気投合。そこの土鍋でパンを焼いてみた。窯元の人が「私たちも土鍋でパンが焼けますと紹介していましたが、本当に焼けるんですね!」と、驚いていたという。以来、窯元とコラボで講習会を開いている松尾氏。「とにかく人が感動することをしたいんです。スタッフにも、どうすればお客さまに感動してもらえるか考えなさいと言っています」
熱量の多い人に出会うと、その人がこだわっているものから、アイデアが浮かんでくるという松尾氏。「料理やお花の先生の繊細なこだわり、色の識別の細やかさ。それらはパンの焼き色や香り、食感に通じるものがありますよね。自分にはないこだわりに出会ったとき、新しい世界が開けてきます。地域や気候によって異なる小麦の個性にも、リスペクトするようになりました」

スタッフにも、しあわせの種をつかんで欲しい

現在、レコルトのスタッフはパン職人が6人、販売が20人。松尾氏は「若い人のスイッチを入れてあげたいんです」と話す。移転する前はいつでも自分が主役、なぜスタッフが辞めていくのか分らなかったという。もっと自分が目を配らなければならないことに気付き、「みんながレコルトの主役なんだ。スタッフにしあわせになってもらうことが自分の使命だ」と考えるようになった。

ある世界的チェーンのコーヒーショップでは、どの店でもいつでも、スタッフがニコニコしている。でも彼らは本当はしあわせな気分でないかも知れない。松尾氏は自店のスタッフに「作り笑顔と心からの笑顔では、どちらが価値があるか?」とたずねているという。「私は作り笑顔のほうが価値があると思うんです。自分のコンディションがどうであろうと、笑顔は相手に対するプレゼント。それこそがプロとしての接客だと考えています」

スタッフの印象で店の評価が変わると考える松尾氏。「プライベートでも笑顔でいてごらん、人生に必ずプラスになるよ」と話している。「いつか製造をやめて、販売に専念してみたい」という松尾氏。お客さまとじっくりパンの話がしたいというのだ。「せめてパンの背景を知ってもらいたいんです。何でこんなに黒いの? 何でこんなサイズなの? という質問に答えるのも私の役目。いろいろ知ってから食べると味が違うと思うんです」大事な人がつくった料理は、味わおうと思ってかみしめる。手間がかかっていると思うと、何倍も美味しく感じる。食べ手が味わう努力をして、大事に食べてくれるというのが松尾氏の持論だ。

どうしたらお客さまに喜んでもらえるか、しあわせになってもらえるかを追求している松尾氏。「今はいろんなことに挑戦していきたい。たとえ失敗しても、必ずあとに生きてきますよ」

食べることと健康は、つながっている

「子ども時代はネクラで、ゲームをしたりマンガばっかり読んでました。すごく太っていて、高校生のころには体重が100kgも。凝り性でプラモデルをつくり始めると、24時間ぶっ通しでやってしまうこともありました」と松尾氏。今の姿からは、想像もできない。

臨床検査技師になろうと思ったのは、高校3年の夏。物理が好きだったので理学部に進学しようと考えていたが、憧れていた卓球部の先輩に影響されて進路変更。先輩の「人間の体って面白いから、うちの大学へ来い。医学の世界は謎だらけだよ」という言葉に興味を持った。大学での勉強はとても面白く、楽しかったという。

臨床検査技師として就職してしばらくすると、男性技師の仕事が少なくなってきた。心電図などをとる際、女性患者が女性の技師を希望するケースが増えてきたのだ。「私の担当は健康診断のデータ処理になりました。膨大なデータを見ているうち、健康と栄養の関係に気付き、栄養学を勉強したり、食にこだわるようになりました」健康診断に来る人に栄養指導や食事のアドバイスをしながら、自分でも料理をするようになった松尾氏。なかでもシンプルな食材だけを使うのに、作り手次第でまったく変わるパンの魅力にはまったという。

プロになるために、期限を切って修業

「臨床検査技師として病院で働きながら、毎朝3時に起きてパンを焼き、職場の人に食べてもらってました」甘いものから、おかずパンまで種類が豊富で、お年寄りから赤ちゃんまで楽しんでもらえるパン。「パンって面白い!と夢中になってしまいました。そもそもパンは微生物の発酵でできるんだ、自分の得意な『化学』をイメージしてつくっていこう」と考えるようになった松尾氏。

自己流でいろいろやっていたが、だんだん欲が出てきて病院を辞めて「ビゴの店」でパン職人の修業を始めた。給料は検査技師時代の1/3になった。「5年で自分の店をオープンしよう。他の人の仕事をうばってでも、足りない経験を補おう」と頑張った。ただ修業時代は「もっとこんな風にしたほうがいいのでは?」という一言が言えず、早く独立したかったという松尾氏。独立してからも修業は続いていく、チャレンジしながら勉強していこうと考えた。

「2年で一通りの仕事を覚えたので、3年で店を出ました。今思えばもっとシェフの心を聞いておけばよかった。パンづくりの理論だけでなく、どんな思いでパンをつくっているのか?自分がオーナーとなってから、精神論的なことをもっと教わっておくべきだったと後悔しています」

自分のフィールドで夢を実現

2012年4月、念願の自分の店をオープン。松尾氏が36歳のときだった。「私は和田岬で育ったので、大開は地元みたいなもの。『普段出会う人たちをしあわせにしたい』という思いがあったので、自分の慣れ親しんだ場所に店を出したかったんです」しかし最初の店は規模も小さく、職人も松尾氏ひとりだったので、すぐに商品が売り切れてしまった。そのことが申し訳なくて移転を考えていたとき、現在の店の大家さんから「パン屋をしてくれませんか」と頼まれた。

現在の店も決して広々しているとは言えないが、1階の厨房はちょっと驚きの空間となっている。一畳ほどもある大きなオーブンが真ん中に陣取っていて、スタッフはその隙間を縫って動いているのだ。「これは男のロマンです。このオーブンが置けることが移転の条件でした」2階にも厨房と窯があって、菓子パンやサンドイッチをつくっている。販売スペースではソフト系やハード系、各種菓子パンからサンドイッチ、惣菜パンなど、松尾シェフにしかできないアイデアあふれる個性的なパンが並んでいる。

化学の理論で多彩なパンを

昔からあんこが大好きで、自分で小豆を炊いて毎日のように食べていたという松尾氏。「臨床検査技師を辞めるとき、和菓子職人になろうかとも思ったんですが、和菓子を食べ過ぎると糖尿病になるなと断念しました」店のオープン当初は、パンに使用するあんこも自分で炊いていたが、たくさんの種類のパンをつくるために、寝る時間も十分にとれない状態に。そんなとき松原製餡と出会い「自分では真似できない技術と、あんこ屋さんの知識に、ここなら安心して任せられると思いました。やはり『餅は餅屋』ですね」

レコルトのあんパンは、北海道特別栽培小豆の最高級のあんのつぶあんパン150円(税抜)のほか、こしあんぱん 150円(税抜)、見た目もかわいいりんごのあんぱん 160円(税抜)、バゲット生地を使ったあんフランス 150円(税抜)など、他店よりバリエーションが多い。「もっともシンプルなパンの材料は、小麦粉とイーストと塩と水ですよね。あんこも小豆と砂糖と水だけで出来ています。こうしたシンプルな材料を組み合わせて、さまざまな風味や食感のあんパンを生み出しています」

店のおすすめは「パンづくりは化学に通じる」という、松尾氏のこだわりが光るクロワッサン240円(税抜)。一般的なクロワッサンに比べ色が黒く、お客さまから「これ焦げてるやん」と言われることも。焦がす直前まで焼き込むことでメイラード反応(食品を加熱したときに起きる化学反応によって、加熱前にはなかった旨味が生まれる)を起こし、香ばしさを最大限引き出している。

r-バゲット280円(税抜)は、食感や味がしっかりした基本的なバゲット。石臼挽きの粉を使用し、外側は固めで中身はもっちり。低温でじっくり熟成・発酵させており、わずかに酸味を感じる。レストラン用に料理をじゃましないパンをと、フレンチのシェフと共同開発したDeux M(ドゥーゼム) バゲット280円(税抜)は、最近の自信作だ。さらに、パンは大きく焼いたほうが美味しいというコンセプトの「大きいパンシリーズ」を展開中。大きくつくるとパンの中に水分が残るため、3日目でも美味しく食べられるそうだ。

「私のパンづくりは味や香りをもっとも重視しています。そのためにフランス産小麦や国産小麦などを使い分け、熟成時間も変えています。基本とされるレシピにとらわれず、配合量を変えたり自家製酵母を使ったりと、今なお化学の実験を続けているようなもの。これからも新しい方法や食材を取り入れながら、美味しくてもっと健康に良いパンをつくりたいと思います」


お客さまのしあわせのため、頑張っています

「職人として勤めていたほうが、ずっとラクだった」とオープン当時を振り返る松尾氏。「明日お客さんが来なかったらどうしよう」と、崖っぷちに追い詰められた気分だった。そのプレッシャーのなかでパンづくりを続けていところ、約半年後に心臓に異変が起きた。「医療の現場で仕事をしていたので、自分で不整脈と気付くことができました。医師に『薬で治せるよ』と言われ、薬を飲むようになりました」

ところが2018年2月に再び心臓発作を起こし、今度は手術を受けて本格的な治療を行なった。発作が起きたときは、中国に滞在中だった。パン屋を開きたいと、日本に勉強に来ていた中国人の店へ指導に行っていたのだ。「中国ではパンにも、いろいろな添加物が使われているそうなんです。『シェフのパンは本当に何も入っていないんですね』と、ウチのパンを気に入ってくれて、それ以来ときどき指導に行っています」


そんなにしてまで、なぜがんばれるのかと尋ねてみた。「お客さまに飽きられないか心配、という気持ちは今もありますね。でもそれ以上に、こんなに褒められる仕事ってあまりないと思うんです。勤めていたころは、仕事はできて当たり前、上手くいかないことがあれば、飲みに行ってグチを言う、というのが嫌でしたね」と松尾氏。理想とするのは、なんだかわからないけど、しあわせになれるパン屋。お客さまの暮らしの中で「あっレコルト行こう!」と言われるような存在になることだ。「レコルトのロゴには観覧車がデザインされているんです。観覧車って遊園地の目印ですよね? そんな観覧車のように、みんなが目印にしてくれるパン屋を目指していきたいと思います」と抱負を語ってくれた。

松尾 裕生氏

元臨床検査技師という異色の経歴を持つ。病院勤務時代に「食」の健康に及ぼす影響に気付いたことから、自身で料理やパンをつくり始める。やがてパンづくりの面白さに惹かれ、プロの職人になるため、神戸の老舗ベーカリー「ビゴの店」をはじめ、いくつかの店で修業。2012年に兵庫区大開で独立を果たし、現在は2店舗のオーナーシェフ。店舗での販売のほか、レストランへの卸、各種講習会での講師など、多方面で活躍している。

Boulangeríe récolte(ブーランジェリー レコルト)

郵便番号/652-0803
住所/兵庫県神戸市兵庫区大開通7-5-16
最寄駅/阪神電車高速神戸線 大開駅 またはJR山陽本線 兵庫駅
アクセス/阪神電車高速神戸線 大開駅より徒歩約1分、JR山陽本線 兵庫駅より徒歩約6分
電話/078-599-6436
営業時間/7:30~18:30(売り切れ次第閉店)
定休日/日曜、月曜



※店舗情報及び商品価格は取材時点(2019年2月)のものです

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