竹谷さんだから聞けるパン職人の理想と挑戦-対談 ひたむきに「食」を追求した44年間~人との出会いが成功への道しるべ~
Boulangerie K YOKOYAMA 横山 暁之介さん

「竹谷さんだから聞けるパン職人の理想と挑戦」。今回お話をお伺いしたのは、埼玉県川口市で『Boulangerie K YOKOYAMA』を営む横山暁之介さん。20代でフレンチレストランのシェフとして修業を積み、その後パン職人への道を進んだ横山さん。「食」との出会いは偶然、と語る横山さんですが、天性の素質が「食」へ導びいたのでしょう。対談のなかで見えてきたのは、フレンチシェフとして、そしてパン職人として、二つの道を歩んできた横山さんだからこそのパンへの想いでした。

前編 後編

「料理」の概念を覆した運命の出会いから









竹谷
 本日はお忙しいところお時間をいただきありがとうございます。まず社会人のスタートはフレンチのシェフと伺っていますが、どのようなきっかけだったのでしょう?
横山
 不純な動機で恐縮ですが……当時、お付き合いをしていた女性との結婚を考えた時に、しっかりとした職に就きたいと思い、はじめは一般企業の面接なども受けました。しかし、どこにも受からず、知り合いの紹介で銀座の高級フレンチレストランに勤めることになったのが、きっかけですね。
竹谷
 銀座のフレンチレストランはどのくらい勤めたのですか?
横山
 5~6年ほどでしょうか。しかし、最初の2年間は鍋釜洗いなどをするのみで、給料もごくわずかでしたね。朝から晩まで20時間ほど職場にいるような生活をしていました。
竹谷
 今でこそ労働環境は改善されていますが、当時はそういう時代でしたね。
横山
 そのような生活をしていた頃に、当時恋人だった妻がカンツォーネのコンクールで優勝し、レコードデビューをすることになりました。周囲は私と妻との結婚を猛反対。私自身も当時の仕事に魅力を感じていませんでした。メインはサーロインステーキ、スープはポタージュかコンソメ、そんなパターンが決まっている料理に疑問も持っていたんです。
竹谷
 そんな思いが変化するきっかけとなる出来事があったんですね?
横山
 はい、それは西麻布に20代のフランス帰りのシェフがオープンしたパリのビストロを再現したお店を訪れた時のことでした。彼の店の雰囲気、つくる料理全てが当時の私の価値観を一変させました。今でもその時食べた料理は覚えていますよ。なかでも衝撃的だったのは、揚げたてのフライドポテトをウェイターがサーブしてくれたことでしたね。
竹谷
 まさに運命の出会いですね! その当時でおいくつでしたか?
横山
 当時25歳でした。そこから本気で料理を勉強し始めました。銀座の高級フレンチレストランの後は、小さなビストロのシェフとして働きました。こちらも朝5時から深夜0時まで働き詰めでしたが、とても実りの多い職場でしたね。なかでも「出会い」というワードがこの職場には欠かせません。

小さなビストロでの出会いが生んだ奇跡



竹谷
 どのような出会いがあったのでしょう?
横山
 クラシックの指揮者として有名な菅原明朗さんが突然店を訪ねてこられ「朝・昼・晩の私の食事をつくって欲しい」と頼まれたのです。その日から本当に朝、昼、晩と1日に3回お店に来ていただきました。通り一遍の料理では満足していただけないと思い、自ら河岸に行き旬の食材を使用した料理を提供するように心がけました。そんな生活を3年間続けたおかげで、今の私があると今でもあの経験には感謝していますね。
竹谷
 とても貴重な経験ですね。それからどのような道へと進んでいったのですか?
横山
 ビストロでの経験も5年目に入った頃、大手リテールベーカリーを経営するオーナー一家がお客様としていらっしゃいました。その時に「2、3年当社のベーカリーを1店舗見てくれないか」と頼まれたことからパン職人への道が開いていきました。30歳で総料理長として招かれ、右も左もわからないままスタートしたので、とても苦労しましたね。
竹谷
 特に大変だったことはどのようなことですか?
横山
 本当に何から何まで未経験、できるのは料理だけという状態でした。急に何百人もの部下ができ、店長会議、マネージャー会議など人前で話さなくてはならない場面も本当に困りました。ただここでの経験があったからこそ『Boulangerie K YOKOYAMA』をここまで成長させてこられたと思っています。
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