竹谷さんだから聞けるパン職人の理想と挑戦-対談 地方からの挑戦、猛練習で得た世界大会優勝という財産~伝えていくパンづくり~ ぱんや徳之助 渋谷 則俊さん

「竹谷さんだから聞けるパン職人の理想と挑戦」。今回お話を伺ったのは、新潟県新潟市にある老舗ベーカリー「冨士屋」の代表取締役であり、2018年11月には新店「ぱんや 徳之助」もオープンした渋谷則俊さんです。修業時代の経験や世界大会への挑戦、そして新店開業という渋谷さんのパン職人としての人生を辿りながら、彼のパン業界に対する熱い想いを伺いました。

前編 後編

紆余曲折、老舗ベーカリー三代目誕生に至るまで





竹谷
 本日はお時間をいただき、ありがとうございます。今では立派なパン職人となられている渋谷さんですが、ご実家である「冨士屋」を初めから継ぐつもりでいたのでしょうか?
渋谷
 実はパン職人になるつもりは全くありませんでした。実際、東京の学校を卒業後、アウトドア用品を扱う会社に就職しました。しかし、自身の甘えから1年ほどで辞めてしまい、新潟市に帰ってきました。
竹谷
 そこで老舗ベーカリー「冨士屋」の看板を背負う覚悟をされたのですか?
渋谷
 覚悟と言うほど立派なものではありませんでした。お金もないですし、ちょっとアルバイトするなら、実家のベーカリーでいいか…くらいの軽い気持ちだったんです。でもそんな自分の甘い考えを父親は見抜いていたんですね。本店では働かせてもらえず、最初は支店のアルバイト店員として勤務しました。右も左もわからないまま、働きはじめたので最初の頃は掃除ばかりしていましたね。
竹谷
 本格的に「冨士屋」を継ごうと決意されたのはいつ頃だったでしょうか?
渋谷
 働きながら、全く仕事が出来ないことに悔しさを覚えるようになり、少しずつですが仕事を覚えて行きました。働きはじめて2年ほど経った頃、父親から「本当にパン職人になるのかはっきりしろ」と言われました。そこで継ぐことを決めましたが、正直なところ“決意”というほど強い気持ちではなかったですね。
竹谷
 継ぐことを決めてからは「冨士屋」だけでパンづくりの勉強をしてこられたのでしょうか?
渋谷
 継ぐことを決めた後は、日本パン技術研究所の「100日コース」に参加したり、日清製粉での技術研修にも1ヶ月ほど参加させていただいたりはしましたが、ベーカリーは「冨士屋」しか知りませんでした。

経営難というピンチが呼んだパン人生最大のチャンス!







渋谷
 「冨士屋」で働きはじめて10年ほど経った頃、経営がかなり厳しくなってしまったんです。売上は落ち込み、支店も閉店を余儀なくされるような悲惨な状況でした。
竹谷
 そんな時代があったんですね。
渋谷
 パン職人を10年ほどやってきて「冨士屋」しか知らない私は、現状のままではダメな事は分かるが、何がどのようにダメなのか、何を変えればいいのかが分からなかったんです。そこで日清製粉の営業さんに「私の頭が固くなる前にどこかに修業に行き、一から勉強し直したい」と相談したんです。
竹谷
 そこで名前が挙がったベーカリーはどちらだったのでしょうか?
渋谷
 埼玉県東川口にある「デイジイ」でした。実は、私は20代の頃に一度「デイジイ」に伺ったことがありました。「クロワッサンB.C.」が全国的に有名になったばかりだったので、店内にはたくさんのパンが並び、レジに長蛇の列ができている様子を見て「こんなベーカリーがあるのか!」と衝撃を受けました。
竹谷
 倉田社長はパン職人としてだけでなく、ベーカリー経営者としてもとても優秀な人ですから、修業先としてとてもいい場所ですね。
渋谷
 倉田社長に面接していただき、緊張しながらも自身が抱えている悩みや会社の現状など全てを打ち明け、1年間の修業を認めていただきました。また修業だけでなく、実際に「冨士屋」の本店と、当時は4店舗あった支店まで全て視察していただき、経営面のアドバイスもしていただきました。
竹谷
 「デイジイ」で実際に働いてみてどうでしたか?
渋谷
 本当に厳しかったですね。当時働いていたメンバーは、みんな自分よりもひと回り年下の人たちばかりなのに、自分の何十倍も仕事ができました。その状況が悔しくて、がむしゃらに頑張りましたね。1年間という期限があったので、1年後にこのメンバーに「渋谷さん辞めないで」と言わせてやると想いながら働いていました。実際、辞める時には「デイジイに就職すればいいじゃん」と言ってもらえるくらいにはなれました。
竹谷
 1年間の修業後はどのようにパンづくりの勉強をしてきたのでしょうか?
渋谷
 私が新潟に帰る頃に発足した「ドイツパン菓子勉強会」に入会し、講習会などに参加しながらパンづくりの勉強を続けていきました。この講習会に参加して痛感したのは、パン業界に携わる人とネットワークを構築し、情報交換することの大切さです。あの時「ドイツパン菓子勉強会」に入会せずに、そのまま新潟に帰っていたら、今の自分はここに居ないと思います。
竹谷
 とても大切な事を倉田社長が教えてくれたんですね。
渋谷
 自分のパン職人人生のターニングポイントは、全て倉田社長が与えてくれたと言っても過言ではありません。本当に感謝しています。
前編 後編
TOPに戻る